「待つ」経験が育む自己抑制と思いやりの心 絵本と保育での学び
はじめに
幼児期は、自己の感情や欲求を認識し、他者との関わりの中で社会的なルールを学び始める重要な発達段階にあります。この時期に経験する様々な出来事の中でも、「待つ」という経験は、子供たちの心の成長に深く関わっています。「待つ」ことは単に時間を過ごすことではなく、自己の衝動をコントロールする自己抑制の力や、他者の状況や感情を理解し配慮する思いやりの心を育む貴重な機会となります。
本記事では、「待つ」経験が幼児期の子供たちの自己抑制と思いやりの心をどのように育むのか、その教育的な意義を探ります。また、具体的な絵本の紹介と、保育現場や家庭で「待つ」学びを支援するための実践的なアプローチについて考察します。
「待つ」経験が育む心の成長
幼児期における「待つ」という行為は、多くの場合、子供にとって容易ではありません。自分の欲しいものをすぐに手に入れたい、やりたいことをすぐに始めたいという衝動を抑えることは、発達途上の自己コントロール能力にとって大きな課題です。しかし、この「待つ」という経験を積み重ねることで、子供たちは以下のような心の成長を遂げることができます。
- 自己抑制(衝動のコントロール): 自分の欲求を一時的に遅らせる、順番を守る、他者の行動が終わるのを待つといった経験は、自己の衝動を意識し、それをコントロールする力を養います。これは将来にわたる学習や社会生活の基盤となります。
- 他者への配慮と思いやりの心: 友達が遊んでいるのを見守る、食事の準備ができるのを待つ、困っている友達に順番を譲るといった経験は、自分以外の人の状況や感情を想像し、配慮する機会となります。これは共感性や思いやりの心の芽生えに繋がります。
- 目標達成に向けた忍耐力: すぐには結果が出ないこと(例:種を蒔いた植物の成長、製作物の完成)に対して、期待を持って待ち続ける経験は、目標達成に向けた粘り強さや忍耐力を育みます。
- 時間感覚と順序の理解: 「待つ」ことを通じて、子供たちは時間の流れや出来事の順序(Aが終わったらBが始まる、など)を感覚的に理解していきます。
これらの力は、子供たちが集団生活に適応し、良好な人間関係を築き、主体的に学びを進めていく上で不可欠な要素となります。
「待つ」学びを支援する絵本
「待つ」ことをテーマにした絵本は、子供たちがこの難しい概念を理解し、関連する感情や状況について考えるための素晴らしい入り口となります。物語を通して、「待つ」ことの理由、待っている間の気持ち、そして待った後の喜びや結果を追体験することで、子供たちは自分自身の経験と重ね合わせ、学びを深めることができます。
ここでは、「待つ」学びを支援する絵本をいくつか紹介します。
『どうぞのいす』
- 著者・画家: 香山美子 作 / 柿本幸造 絵
- 出版社: ひさかたチャイルド
内容と教育的効果: うさぎさんが作った「どうぞのいす」に、通りかかった動物たちが次々と座り、持っていたものを置いて休憩し、次に座る誰かのために別のものを置いていきます。この物語は、自分が行動した後、次に誰かが来るのを「待つ」という行為が、他者への思いやりや分かち合いに繋がることを優しく描いています。子供たちは、自分の行動が他者にどう影響するか、そして待つことによって生まれる温かい交流があることを感じ取ることができます。他者への配慮に伴う「待つ」ことの意味を理解する助けとなります。
『じっとするっていいうこと?』
- 著者・画家: クリストフ・ドラピエ 作 / アドリアン・アルベール 絵
- 出版社: ブックローン
内容と教育的効果: 「じっとする」ことがテーマの絵本です。子供にとって「じっとする」、つまり動き回りたい、声を出したいといった衝動を抑えることは非常に難しいことです。この絵本は、様々な状況で「じっとする」ことの必要性や、それがなぜ大切なのかを問いかけながら進みます。直接的に「待つ」という言葉を使わずとも、自己抑制や我慢することに焦点を当てており、子供たちが自分自身の感情や行動をコントロールすることについて考えるきっかけを与えます。「待つ」ことの根幹にある自己抑制の側面を理解するのに役立つでしょう。
その他の絵本例
- 『はらぺこあおむし』(エリック・カール 作):さなぎからちょうになる変化を「待つ」期待と忍耐。
- 『まっててね!』(林明子 作):お母さんを一人で「待つ」子供の気持ちと、再会の喜び。
- 『ぐりとぐら』(なかがわえりこ、おおむらゆりこ 作):大きなカステラができるのを「待つ」楽しみと期待。
これらの絵本は、「待つ」という行為が伴う様々な状況や感情を描いており、子供たちの共感を呼び起こし、話し合いを深める材料となります。
保育現場での実践例
絵本で「待つ」ことについて感じたり考えたりしたことを、実際の保育活動に繋げることができます。
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絵本を読んだ後の話し合い:
- 絵本の中で登場人物が「待つ」場面に注目し、「どうして待っているのかな?」「待っているとき、どんな気持ちだったかな?」「待った後、どうなったかな?」といった問いかけをすることで、子供たちが「待つ」ことの理由や感情、結果について考え、言葉にするのを促します。
- 「みんなも待ったことある? どんなときに待ったかな?」と、子供たちの実体験と結びつけることも有効です。
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「待つ」経験を含む遊びや活動:
- 順番が必要な遊び: 滑り台やブランコ、手洗い、特定の遊具の使用など、順番が必要な場面で、自分の番が来るまで「待つ」ことを促します。その際、「〇〇ちゃんの番が終わったら△△ちゃんの番だよ」と見通しを示したり、待っている間にできること(手遊び、絵本を見るなど)を提案したりすると、子供は安心して待つことができます。
- 簡単なクッキング活動: 卵を混ぜるのを「待つ」、オーブンで焼けるのを「待つ」、冷めるのを「待つ」など、調理過程には様々な「待つ」場面があります。待っている間に材料の変化を観察したり、完成への期待感を共有したりすることで、待つ時間を意味のあるものにします。
- 植物の栽培や生き物の飼育: 種から芽が出る、花が咲く、幼虫がさなぎになりちょうになるなど、自然の成長を「待つ」経験は、忍耐力と生命への畏敬の念を育みます。毎日観察記録をつけるなど、待つ過程を楽しむ活動を取り入れられます。
- 製作活動: 絵の具が乾くのを「待つ」、粘土が固まるのを「待つ」など、製作のプロセスにも「待つ」場面があります。完成を楽しみにしながら待つ経験は、目標達成への意欲を育みます。
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環境構成と声かけ:
- 子供たちが安心して待てるように、待つ場所を用意したり、待つ時間の目安を示したりするなどの環境構成も重要です。
- 「待つ」ことができた子供には、「自分で待つことができたね、すごいね」「〇〇ちゃんが使えるまで、静かに待っていてくれてありがとう」など、具体的に褒めることで、自己抑制や他者への配慮を肯定的に強化します。
- 待つことが難しい子供には、その気持ちを受け止めつつ、「大丈夫だよ、一緒に待とうね」「あと〇分でできるようになるよ」などと寄り添い、サポートします。
保護者への提案と連携
子供の「待つ」経験は、家庭生活の中にもたくさんあります。保育者から保護者へ、「待つ」ことの教育的な意義や家庭での実践について情報提供を行うことは、子供の一貫した成長支援に繋がります。
- 家庭での「待つ」機会の例:
- 食事の準備ができるまで待つ
- お買い物でお会計の順番を待つ
- 公園の遊具の順番を待つ
- お風呂が沸くのを待つ
- 宅配便が届くのを待つ
- 兄弟や家族の行動が終わるのを待つ
- 保護者への声かけのヒント:
- 「今すぐじゃなくて、少し待ってみようか」「あと〇分したら遊ぼうね」など、具体的な見通しを示す。
- 待っている間、一緒に絵本を読んだり、簡単な手遊びをしたりして、時間稼ぎではなく、一緒に過ごす時間として「待つ」ことを捉える。
- 待つことができたときには、「待てたね、えらいね!」と褒め、肯定的な経験とする。
- なぜ待つ必要があるのか(例: 「今お母さんお料理してるから、終わったら一緒に遊ぼうね」「順番を守らないと、みんなが気持ちよく遊べないんだよ」)を、子供が理解できる言葉で伝える。
- 「待つ」ことが難しいのは自然なことであることを伝え、完璧を求めすぎず、スモールステップで取り組むことの重要性を共有する。
保護者会やクラス通信などで、絵本の紹介とともに、家庭での「待つ」経験を肯定的に捉え、子供の成長の機会として活かす提案を行うことができます。
まとめ
幼児期における「待つ」経験は、子供たちが自己抑制の力や他者への思いやりの心を育む上で、非常に重要な学びの機会を提供します。これは、単に我慢させることではなく、自分の感情や欲求を理解し、他者との関係性の中で適切な行動を選択する力を養うプロセスです。
「待つ」ことをテーマにした絵本は、子供たちがこの概念に触れ、共感し、考えるための効果的なツールとなります。また、保育現場や家庭における日々の具体的な活動の中に「待つ」経験を意図的に組み込み、子供の気持ちに寄り添いながら適切にサポートすることで、子供たちの健やかな心の成長を支援することができます。
「待つ」経験を通じて育まれた力は、子供たちが社会の中でより良く生きるための大切な土台となるでしょう。日々の関わりの中で、子供たちの「待つ」という努力を温かく見守り、成長を支えていくことの重要性を再認識していただければ幸いです。